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『ロッキー』シリーズの名プロデューサーが明かす成功までの道のり

自身のキャリアついて語るアーウィン・ウィンクラー
自身のキャリアついて語るアーウィン・ウィンクラー

 映画『ロッキー』シリーズのプロデューサーアーウィン・ウィンクラーが、自叙伝「ア・ライフ・イン・ムービーズ:ストーリーズ・フロム・50イヤーズ・イン・ハリウッド(原題) / A Life in Movies: Stories From 50 Years in Hollywood」について、5月2日(現地時間)、ニューヨークで開催されたAOLのイベントで語った。

【作品写真】アーウィン・ウィンクラーが手掛けた『ロッキー』

 アーウィンは、1931年ニューヨーク生まれ。ニューヨーク大学で学び、1967年に映画『ダブル・トラブル(原題)/ Double Trouble』でプロデューサーとしてデビューする。『ひとりぼっちの青春』(1969)がアカデミー賞9部門にノミネートされ、その後も『ロッキー』シリーズ、『レイジング・ブル』『グッドフェローズ』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』など数々の名作を手掛けた映画界を代表するプロデューサーだ。

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 アーウィンの映画界でのキャリアは、あるエージェントの仕事から始まった。「ニューヨーク大学を卒業したときに、大手エージェントMCAで働くことを勧められたんだ。幸運にも面接を受ける機会を得て、そのオフィスに行くと、誰かが『バート』と電話で口にし、一方別の電話では『トニー』と言っていた。おそらくそれは バート・ランカスターやトニー・カーティスのことだと思って、このエージェントはなんて素晴らしいんだ、と心が躍ったよ。だが、面接官がショービズに関してさまざまな質問をしてきたとき、僕は彼が何を言っているのか全くわからなかったんだ。結局、仕事を得ることができなかったので、面接官に他に良いエージェントはあるかと聞くと、ウィリアム・モリス・エージェンシーを教えてくれたんだんだ。そこの面接でもMCAと同様の質問をしてきたから、今度はちゃんと答えることができた。そして、メールルームから仕事を始めることができたんだ」

 だが、ウィリアム・モリス・エージェンシーでは、なかなか自分の思った地位につけずにいたアーウィンは、ロバート・チャートフと出会い、チャートフ=ウィンクラー・プロダクションズを始める。「(プロダクションを始めたのは)1960年代後半あたりで、僕らが扱っていたのは舞台俳優や映画俳優、そして多くは(ニューヨーク北部のキャッツキル山地にある避暑地である)ボルシチ・ベルトで活躍するコメディアンたちだった。時々、ロックスターも雇っていたよ。歌手ジョニ・ミッチェルのキャリアには初期のころに携わっていたし、ロックバンド、バッファロー・スプリングフィールドにも長年関わってきた」と明かした。

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 プロデューサーとして、撮影現場に介入すべきか否かという決断をどのように下しているのか。「監督はクリエイティブな面で日々責任がある。俳優の演技をチェックし、正しい構成の脚本かを確認し、全ての要素を整えなければならない。例えばレストランのシーンで、ステーキを食べているのか、ツナサラダを食べているのか、そういった細かなことまで、全てを決断するのが監督だ。一方、プロデューサーは映画全体に責任がある。撮影現場でクリエイティブな面で何かおかしいと感じたら、監督に『あのシーンは、もっと良くできたんじゃないか?』『もう一度撮り直したいのか?』あるいは『編集で改善できるのか?』と聞いてみるんだ」と語った。(取材・文・細木信宏/Nobuhiro Hosoki)

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